『女人高野』室生寺参詣
新年明けましておめでとうございます。
年末年始は車で九州の実家へ帰省する、というのがうちの恒例行事。
もちろん今回もそのつもりだったんですが...なんと出発前日に私が高熱でダウン。
すぐ病院に行き薬も飲みましたが高熱は3日も続き、帰省は取り止めに。
ちなみに病院には2回行きましたがインフルエンザではありませんでした。
年が明け体調も戻ってきたのでどこか行こうとあれこれ考えてみましたが...
病み上がりで遠出やキャンプっていうのもねぇ。
明治の初めまで女人禁制だった高野山に対し、こちらは古くから女性の参詣も許されていたことから『女人高野』と呼ばれています。
阪神高速~西名阪~名阪国道と特に渋滞もなく11時半頃室生寺駐車場到着。
ガラガラです。
下にも車停められたのね、先に言ってよ。
駐車料金は1日500円と良心的。
ここから室生寺までは徒歩5分くらい。
写真に写っている飲食店は全てお正月休みでした。
右手に橋本屋旅館、左手は御食事処橋本屋。
この間を通り抜けます。
朱塗りの欄干の橋を渡った先にあるのが室生寺。
橋の上から東側。
西側。いい感じですね。
初めての室生寺ですが工事用フェンスと鉄パイプ類、似つかわしくないピッカピカの石柱がとっても残念な感じ(泣)
拝観料は大人600円也。
入ってすぐに護摩堂。
そして仁王門。
ここでは向かって右に阿形像(赤)、左に吽形像(青)が配置されています。
仁王門をくぐると左にバン字池。
手水舎の水は竜の口から吐き出される仕掛け。
いよいよ鎧坂を登ります。
登ったところにあるのは金堂(平安初期・国宝)。
建物の中にも国宝と重要文化財がいっぱい。
- 十一面観音菩薩像(平安初期・国宝)
- 御本尊釈迦如来立像(平安初期・国宝)
- 帝釈天曼荼羅図(平安初期・国宝)
- 薬師如来像(平安初期・重文)
- 地蔵菩薩像(平安時代・重文)
- 文殊菩薩像(平安初期・重文)
- 十二神将像(鎌倉時代・重文)
建物内は撮影禁止です。
双眼鏡で仏像を細かく鑑賞させて頂きましたが、国宝の帝釈天曼荼羅図に気付かず見逃してしまいました。
ところで、なぜ仏像は撮影禁止なのか疑問に思ったことはありませんか?
なんとなく分かるようで、でもよく分からないこの疑問。
その答えは色々あるんでしょうが、私にとっての「しっくりくる答え」をご紹介しておきます。
あなたが仏像を撮るときに、同時に後光というフラッシュにも照らされている、ということをお話しします。まず、仏像の写真は活用のされ方が問われるのです。 宗教者であれば、仏像などを撮影するにしても宗教的に広報するように配慮できる立場が宗教者としてのプロ意識です。 宗教的に広報する、ということはどういうことかと申しますと、 その仏像の写真に人が救われるような言葉を添えるなどして、決して軽んじない、敬われるように重大な責任をもって是を扱う、ということです。現代では、悪乗りでブログにアップしてしまう方も沢山おられます。 雑誌の表紙にもなります。せんとくんみたいなキャラクターも賛否両論です。 特に悪乗りされる方々などは自分のひけらかしの一つとしてぞんざいに扱い、その時ぞんざいな同一目線で曝されてしまいます。 kyosukeさんはそういう扱いをされることはないでしょう。 ですが、個人ブログにアップする、ということ自体、本当のところはもっと慎重であってほしいと思います。 数百年前に大誓願をもって創り上げられた仏師、開眼師、願いを持たれた信者さん、檀家さんの方々が存在していたということを、その仏像の背景に感じとってみてください。 仏像とは、誰のものでもありませんが、そういう方々が、大事にされてきた先祖、先亡の遺品でもあるという側面もあります。 仮にですが、あなたの親御さんの遺品を誰かがあなたに無断でブログに載せられ曝されたら、どういう感覚がするか。 そういう繊細な感性を、ご配慮いただければそこに小さな仏心というフラッシュがあらわれるのです。これは賛否両論以前の人間の感性。 先祖、先亡、飢饉、貧困、戦乱の時代に生きた方々、その人たちの願いを想像し、思いを馳せてみてください。
その光なき光。後光という光が感じられれば、誰であって写真を撮ろうとする指にためらいが生じるのではないでしょうか。 きっとあなたがどこかのお寺の本尊の前に立った時、このことを思い起こされ、撮らんとするその手を合掌に変えられれば、いっそう感性が磨かれ、感受性が高まり、仏像でなくとも、きっと良い写真を撮られるようになられると思います。 もし、あなたが仏像を撮るときに、無限の先亡の後光というフラッシュに照らされる、照らされている、それを感じ取れる人間であっていただきたい、というお話でした。安穏寺(天岑寺) 丹下覚元氏
初めまして。久々に回答させていただきます。 私もかつては「撮影禁止」ということにその理由がよくわからい一人でした。 あるお寺で訊ねても、「フラッシュによる紫外線が仏像や仏画に影響するから」という、納得しにくい返答でした。しかし、人生の意味を探求するうちに気づいたことがあります。 それは一言で申しますと、「十全にそこに居る」ことの大事さでした。「聖なるもの」である仏像と対峙し向き合うとき、私たちは「真の自己」を体験します。 「聖なるもの」というのは、そのものがもともと「聖」であるのではなく、そこに向き合う私たちが「聖なるもと」とするのではないでしょうか。 ファインダーの向こう側に居るのではなく、「そこに十全に居る」ことこそが仏像の持つ大きな意味であると思えるのです。 他のことを一切せずに、ただただ「そこに居る」。それを体験することの大事さこそが、仏像をとおして気づくことなのです。 すなわち人生において、スポーツのギャラリー(観戦者)ではなく、人生の主役としてプレイヤーでいることが求められるフィールド=「道場」であるというのが、その真意ではないかと思えるのですがいかがでしょう。私たちは日常において、常に「何かのため」に頭を使い、行動し、心を煩わせています。その中で、「何もしない」ということの大事さには気づきにくいものです。 左脳の働きを鎮め心のざわめきが収まり、右脳とのバランスがとれて来た時に人は「十全にそこに居る」ことができて、人生のなかで最高のパフォーマンスを発揮するのです。
天龍院 河野秀海氏
金堂の左手には弥勒堂(鎌倉時代・重文)があり、その中には弥勒菩薩立像(重文)と釈迦如来坐像(平安初期・国宝)があるはずなんですが、弥勒堂の周りは工事用フェンスで囲われていて、近づけないようになっていました。
金堂前庭の右手にある軍茶利明王石仏。
続きまして本堂(鎌倉時代・国宝)。
見事な造りですね。
本堂から更に上がると五重塔(平安初期・国宝) があります。
総高16.1mで屋外に建つ五重塔では最小だそうです。
本堂の屋根が立派ですね。
奥の院を目指して歩きます。
階段がなかなかしんどい。
今回、ムーさんも自力で階段を踏破しました(下りもね)。
頼もしい髭娘についついおやつ袋のチャックも緩みます。
奥の院に着きました。建物は常燈堂(位牌堂)。
常燈堂の隣りに御影堂(鎌倉時代・重文)があるんですが写真を撮り忘れてしまいました。
七重石塔。
室生寺は想像通りの素晴らしい寺院でした。
ぜひまた訪れたいですね、工事が終わってから...
室生寺へ行くならこっちもね、ってことで大野寺へやってきました。
宇陀川を挟んだ対岸の岩壁に刻まれた弥勒摩崖仏。
像高11.5m、1200年代初め頃に彫られたようですね。
この後曾爾村の温泉へ行く予定でしたが、この寒い中ムーさんを車内でお留守番させるのがかわいそうってことになり、道の駅で少し遅めのお昼を食べて帰りました。